boowy prof
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80年 氷室、布袋そして「ディスペナルティ」解散後、「織田哲郎&9thイメージ」で活動していた松井、布袋の昔のバンド仲間である諸星アツシ(g)と深沢和明(サックス)、それに「スピニッジ・パワー」から木村マモル(dr)を加えBO�WYの原型である「暴威」が結成される。
81年 新宿ロフトを拠点にライブ活動を開始。木村マモル脱退。オーディションにて高橋まことが加入。ファースト・アルバムのレコーディング開始。
82年 バンド名を"BO�WY"に変更。ファースト・アルバム「MORAL」をビクターより発売。諸星、深沢が脱退。
83年 プライベートオフィス「CONNECTION」を設立。”アフロカビリー”と銘打った全国的なライヴを展開。セカンド・アルバム「INSTANT LOVE」を徳間ジャパンより発売。活動の拠点を渋谷LIVE INNへ移行
『布袋寅泰』
幼少時代にピアノを始める。14歳の時、マーク・ボランのポスターを見て感銘を受けギターを始める。初めて買ったギターはストラトキャスタータイプで、この時の資金は母親の財布から失敬した壱万円だったという。
A-ROCK本選会アイデア賞を受賞し、17歳(高校3年時に中退後)の時上京。
1981 年に氷室京介らと共に暴威(後に「BO�WY」と改名)というバンドを結成。翌1982年にリリースしたアルバム『MORAL』にてプロデビューする。バンド時代は彼自身のスタイル(『8ビート』の『カッティング』など)が確立されていった時期であるといえる。『B・BLUE』、『ONLY YOU』、『MARIONETTE』などその過程においてBO�WYの代表曲となる作品が多数生まれている。BO�WYは1987年12月24日渋谷公会堂で解散し、翌1988年4月に行われた東京ドームでのライブをもって活動に終止符を打つ。
BO�WY時代から現在に至るまで愛用されている白黒の幾何学模様のテレキャスターは市販されている数あるアーティストモデルのギターの中でも特に有名である。模様は酒を呑んで酔っ払った勢いで「あっみだくじぃ~」と口ずさみながらトイレで書いたとされる。
初期の活動と平行して、演劇型アプローチのロックバンド、AUTO-MOD(他に、高橋まこと、PERSONZの渡邉貢らが在籍)に在籍していたり、またその個性的なギタースタイルから他のアーティストのレコーディングに呼ばれる事も多く、鈴木雅之のソロデビュー曲『ガラス越しに消えた夏』をはじめ、吉川晃司・中島みゆき(後藤次利プロデュース)、『風の谷のナウシカ』サウンドトラック、山下久美子(吉田建プロデュース)などのアルバムに参加している。
BO�WY での活動を終えて、氷室京介が1988年7月21日にソロデビューしたのに続き、半年後の同年10月にソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』をリリースし、ソロ活動を開始。藤井丈司・ホッピー神山とのコラボレーションによるギターとコンピュータの融合で歴史に残る斬新なアルバムとして注目された。イギリスにおいてシングルを発表するも注目されることはなく、同年12月に吉川晃司とCOMPLEXを結成し、シングル『BE MY BABY』でデビュー。2枚のアルバムを発表したが、音楽性の違いで吉川と対立し、1990年11月8日に行われた東京ドームでのライブをもって無期限活動休止に入る。
COMPLEX休止後は一貫してソロ活動に専念する。ミュージシャンであるだけでなく、音楽プロデューサーとして今井美樹、相川七瀬、TOKIO、藤井フミヤ、JILL(PERSONZ)や江角マキコなどのアーティストに楽曲を提供したり、『新・仁義なき戦い』や『KT』、『キル・ビル』などの映画音楽も手掛ける。また『新・仁義なき戦い』や『サムライ・フィクション』等では俳優としても活躍。その長身と強面を生かし、永瀬正敏とのコマーシャルにも出演。
1996年にはマイケル・ケイメンからのオファーでアトランタオリンピックの閉会式に出演。1994年の奈良東大寺でのイベント「AONIYOSHI」をきっかけに交流を深めたケイメンとギターとオーケストラとの融合作品『GUITAR CONCERTO』に参加したり、『THANK YOU & GOOD BYE』のプロデュースをケイメンに依頼した事もあった。
楽曲製作に関しては、作曲を優先(曲先)にする。ギターリフから作ったもの、ベースリフから作ったもの、メロディから作ったもの、リズムパターンから作ったものとバラエティに富んでいる。
『氷室京介』
レコーディングでは、ジョシュ・フリーズ(Josh Freese,ドラム)、マイケル・ランドウ(ギター)などその他L.Aの売れ筋ミュージシャンを多く起用している。楽曲は幾度も作り直すなどアレンジや録音にも多くの時間をさいて、演者であること以上にクリエイティブであり続けることに重きを置いている。
また”あくまでニルヴァーナ以降の流れ”とのコメントからは、80年代以降、もはや存在しないと認識されていた初期衝動としてのロックやインディペンデントであることなどが90年代に再び発見されたように、それらが、やはり自分にとっても重要であって、いかにランキングや流行の波に乗るかといったことはさして興味がなく、”俺の求めるサウンドはもう、こちらにさえない”と最近になってコメントするほど、常に何処にも存在しないものを自分の力で創り出したいという欲求はむしろロックというよりも真のアーティスト的な感覚に近い。
特に2003年のアルバムリリース直後「クレームが来ないか心配だった」と語るとおり、それまでのバラードなどのクオリティ重視とはうって変わり再び荒削りなロックとしての音作りを追求。実際に、前作の感じを期待していると裏切られ賛否両論に別れるというのが渡米後は普通のこととなってきている。